2012年3月29日木曜日

佐藤幸子さん(53)は昨年11月中旬、「野菜カフェはもる」を福島市中心部に開いた。農薬や化学肥料に頼らない西日本産の野菜を専門に扱う

http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1090/20120107_02.htm より転載

被ばくした中山間地 ニッポン開墾(6)店開き心身ケア支援

野菜カフェで、西日本から取り寄せた野菜を販売する佐藤さん(奥)。福島の子どもに安全を届ける=昨年12月15日、福島市新町
◎佐藤幸子さん=福島県川俣町「子どもの命守りたい」

 奈良のカボチャに京都のニンジン、広島のホウレンソウもある。約50平方メートルの店内に並ぶのは福島第1原発から遠く離れた産地の新鮮な野菜だ。
 福島県川俣町の農業佐藤幸子さん(53)は昨年11月中旬、「野菜カフェはもる」を福島市中心部に開いた。農薬や化学肥料に頼らない西日本産の野菜を専門に扱う。
 有機農業を30年間続け、自給生活を実践してきた。燃料をたくさん使って運ぶ遠隔地の野菜を売る店は最も遠い存在だった。「思いは複雑。でも今、福島でできる最善の選択肢だと思っている」
 原発事故で放射線量が高くなった地域の子どもはできれば避難してほしいと願う。一方で、経済的理由で残らざるを得ない家族の事情も分かる。
 「福島にとどまる人には安全な野菜を食べてもらい、内部被ばくを減らしたい」。店を開いたのは福島の子どもを守りたい一心からだった。

 5人の子どもを育てた。事故後はいち早く、お母さんお父さんの仲間と自主的に地元の学校の放射線量を調査。比較的高い数値が示され、県教委に新学期開始の延期を求めた。
 要求は通らなかったが、諦めない。5月には県内の親らと「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク」を結成した。
 直後の東京の交渉では、学校の放射線量基準を年20ミリシーベルトから下げない文部科学省の役人に、福島市の小学校の土を突き付けた。「そんなに安全なら東京に持ってきてもいいのか」と詰め寄り、基準引き下げにつなげた。
 9月にはニューヨークの国連本部前でデモ集会を開いた。原子力安全首脳会合に出席する野田佳彦首相に拡声器で叫んだ。「福島の子どもを守らないで、原発の安全を言うのはひきょうだ」
 煮え切らない官僚や政治家を怒鳴る。その姿がインターネットで伝えられ、小さい子を持つ親を勇気づけた。おっかないけれど、頼りになる福島のお母ちゃん代表だ。

 上の子3人は独立し、原発事故前は夫和夫さん(61)、18歳の息子、14歳の娘と4人で暮らしていた。鶏250羽、水田1ヘクタール、畑3ヘクタール、山林20ヘクタールを所有していた。都会の就農希望者を受け入れる自然農の研修施設の運営も15年間続けた。修了者は60人に上り、うち15人が福島県に移住した。
 原発事故で農業は全て中断。和夫さんは中国地方で農場探しを続ける。15人の移住者のほとんども県外に去った。
 佐藤さんは福島で活動を続ける。「原発の問題を発信するには福島にとどまってこそ訴える力がある。放射線の不安はあるが、こういうときのために安全な食べ物を取り、体を作ってきた。病気にならない自信はある」
 ただ、わが子は別だ。放射線の影響を受けない所で生活させようと、米沢市の雇用促進住宅を借りた。子ども2人と寝起きし、自分だけ毎朝、栗子峠を越えて福島市に通い、深夜に戻る。
 野菜カフェは放射線に関する相談所の顔も持つ。放射線を心配しながら福島に住み続ける人が相談に来る。話を聞くのは精神科医や気功師ら。佐藤さんの活動に共鳴してボランティアとして協力している。日替わりで店を手伝い、来店者と悩みを分かち合う。
 「これまで多くの恩を受けた。それを今、困っている人に返したい」。助けたり、助けられたり。人の役割が重なり合って命を未来につなぐ。そんな店を目指している。

<6年前の連載/地域通貨、普及に尽力>
 離農者が絶えない中山間地。佐藤さんは地元の雑貨店に生まれ、農家に嫁いだ。自然農の研修施設を営んだのは「次代に農家の知恵と技を伝えていくのも大きな仕事」との思いから。「結い」のような相互扶助の精神を地域に復活させようと、地域通貨の普及にも取り組む。柔軟な発想と行動力が山里に活力をもたらしている。(2006年3月6、7日付)

2012年01月07日土曜

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